映画「運び屋」を見て
更新日: 2022-05-08 21:53:48
映画「運び屋」
2018年 1時間56分
監督: クリント・イーストウッド
出演: クリント・イーストウッド, ブラッドリー・クーパー, ローレンス・フィッシュバーン, アンディ・ガルシア
原題「THE MULE」
Mule とは動物の「ラバ」のことだが、俗語で麻薬などの「運び屋」という意味もあるそうだ。
家族よりも仕事を優先してきたために家族から孤立してしまった老人のアール。そんな彼がたまたま引き受けた仕事は麻薬の運び屋だった…。
感想
この作品からのメッセージは人生の選択で後悔をしないようによく考えて生きろ、ということか。
過ぎてしまった時間はもう巻き戻せない。
メアリーとの会話
孫娘の結婚パーティーで、妻のメアリーとアールの会話。
膨大な時間とお金を花(デイリリー)に費やすなんて理解ができなかったと語るメアリーに対して「好きなんだよ」「1日だけ花開いて終わってしまう」「時間と努力が必要だ」と返すアール。
それに対して「家族だってそうよ」とメアリーに言われると、返す言葉がなくなるアール。
今の年齢になって初めてそれに気付いた様子で悲しそうな表情になった。
例え家族であっても、良い人間関係を作るには時間と努力が必要だということ。
アールはそれに気付かないまま年をとってしまった。
バイク集団とのシーン
仕事中に立ち寄ったところで「1980年製 ショベルヘッド 俺も昔 乗ってた」とバイク集団に対して話しかけたアール。
これって、クリント・イーストウッド自身がかつて出演した映画のことを指しているのだろうか?
差別用語を口にするアールと大人の対応をした人々
女バイク集団に向かって「ダイクス」と口にしていたが「ダイク」とは女性同性愛者を差別する言葉なのだそうだ。
他にも、黒人に向かって「ニグロ」と口にしたし、監視役のフリオらに「タコス野郎」とか。
アールはそれが差別とは思っていないようで、おそらくは古い人間のために、古い価値観をアップデートできないまま老人になってしまったようだ。
それともそうではなくて、これらの言葉は「爺さん」と言われることに対しての彼なりの反抗なのだろうか?
あるいは、あえてこのような言葉を使うのは、ジョークのつもりなのだろうか?
対して、ニグロと言われた黒人は「ニグロとは言わずに黒人って言ってくれ」と言葉で返したし、フリオらは「むっ」とした表情で感情を表現した。
これは平和的でとても上手い返し方だなと思った。大人の対応で素晴らしい。
何か癪に障ることを言われたとして、暴力で返したり激高したら、こちらが負けだ。
言葉や表情などで気持ちを伝え、それで伝わらなければ、その相手とは係らないというのが現代の社会での正しい対応方法ではないだろうか。
ぜひ真似したい。
人付き合いの上手なアール
ジョークを武器に相手が誰であろうと上手く付き合っていくことのできるアールが羨ましい。
一言で言うと、コミュニケーション能力が高いということなのだろう。
もしも、その能力が低かったら、引きこもりの老人になってしまう可能性が高い。
たった1回運んだだけで300万円くらい儲かる!
アールが3回目に運び終えた後の報酬は100ドル札の束が3つだった。一つの束が100枚だとすると、ざっと300枚。1ドル100円とすると300万円になる!
スゲー儲かるじゃん!こりゃあ、辞められなくなるな。
ていうか、そんなに儲かるのなら、やりたいという人が多過ぎて困るくらいなのでは?
あえて、アールが選ばれた理由は何なんだろ?老人だから怪しまれないと考えたのだろうか?
それにしても、運び屋というのは麻薬組織からしてみれば単なる使い捨ての道具くらいの位置づけなのかと思ったが、多額の報酬を与えるというのは、末端の人間でも大事にする精神なのだろうか?
それとも、アールにとっては巨額の報酬でも、麻薬組織にしたら「はした金」なのだろうか?
家族や仲間のためにお金を使っていたが、とはいえ犯罪で得た金だということを忘れてはならない
アールは運び屋の仕事で得た金で新車を買い、孫娘のパーティー費用を出し、厨房が火事になった退役軍人記念館を修復したりと、人のためにお金を使っているが、一方で、1トン近い麻薬を運んでおり、その結果としてどれだけ多くの人を麻薬で不幸にしたかということを忘れてはならない。
麻薬組織の末端である運び屋にも親切な麻薬組織のボス・ラトン
アールはその仕事ぶりが評価され、麻薬組織のボス・ラトンにメキシコの豪邸まで招待され歓迎される。
そういったことをするのはラトンくらいなのかもしれないが、使い捨ての駒に過ぎない運び屋の老人をわざわざメキシコのボスの屋敷に招待するとは驚いた。
ラトンは仲間想いの男のようだ。
だが、それが弱点となって手下から殺されてしまったのかも。
豪勢な生活を送る麻薬組織のボスも、いつ殺されてもおかしくない毎日なので、それって幸せなのだろうか?
一度出来てしまった溝はそう簡単に埋まるものなのだろうか?
アールは、娘や妻との溝も埋まりつつあるようだが、果たして一度出来てしまった溝がそう簡単に埋まるものなのだろうか?
アールの場合は、それでも妻がアールを愛していたので幸運であり、普通であれば関係の修復はもうできないと思う。
クリント・イーストウッド自身も人生において後悔していることがあるのだろうか?
クリント・イーストウッドは俳優として成功しているしお金もたくさん稼いだはずだ。
しかし、今の年齢になって何かを後悔しているからこそこの作品を作ったのかもしれない。
それは、この作品と同じで「家族」なのだろうか?
と、思ったが、この作品の製作が決まった後でクリント・イーストウッドの監督・主演が決まったとのことで、そうではなかったようだ。
ラストの曲の歌詞で「老いと迎え入れるな」とはどういう意味か?
曲の歌詞にあった「老いと迎え入れるな」という言葉は「何歳になっても努力を続けて諦めるな」という意味だろうか。
アールの人生とは何だったのか?
家族を大事にしてこなかったために、妻と娘から煙たがられる存在のまま老人になってしまった。
そして、最後は運び屋になってお金が入り、家族との絆も修復されつつあったが、最後は刑務所暮らし。
おそらく、刑務所で人生を終えるのかもしれない。
アールが老人になって後悔しているのは、家族との絆を壊してしまったこと。
たまには娘が刑務所に面会に来てくれるかもしれないが、交流と呼べるほどのものではない。
結局のところ、アールは家族との絆を取り戻せたのかもしれないが、運び屋になったことで余生を台無しにしてしまった。
アールの人生は、最後の最後も選択を間違ってしまったのかもしれない。
それでも刑務所で花を育てている姿が生き生きとしていたのが救いだった。
彼ならたとえ刑務所でも上手くやっていけるのではないだろうか。
アールはなぜ素直に罪を認めたのか?
裁判で争えば、少しは刑が軽くなるかもしれないのに、そうはせずにアールは全面的に罪を認めた。
これはなぜか?
想像するに、アールは麻薬の運び屋としての罪を認めたというよりも、人生の選択を間違えたということを認めたのではないか?
人生の選択を間違えたというのは、家族を大事にしてこなかったことと、運び屋の仕事をしてしまったということ。
運び屋の仕事をしてしまったために、もう外で家族と触れ合うことはできないだろうから。
人生の選択のミスを素直に受け止めることにしたのだと思う。
人生の後悔
人生の中で後悔をすることはあるかもしれないけど、その時はその時でそうすることしかできなかったのだから、諦めるしかない。
それでも、前を向き続けて生きていくしかないのだ。